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コラム19 <思いがけず手に入った15世紀初期印刷本の一葉 修復本科 野呂聡子  
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 手に入ったばかりの『ニュルンベルク年代記』を皆に見ていただこうと教室に持参した。 購入顛末を話題にした折、ラテン語なのでちっとも読めませんが、と軽口を叩いてしまった。即座に板倉先生から「勉強し!」とのお達し。実際、こういう結構なものを所有したからには、その持ち主たることに恥じぬよう、もっと精進せねばなるまい、と思い、購入顛末のことなどなどを一文に纏めることにした。

 京都市勧業館「みやこめっせ」で開催された「国際稀覯本フェア2012 in Kyoto」 (2012年3月23日〜25日)
稀覯本、即ち稀少で入手しづらい本の販売会である。ウン千万円のお宝本やウン百万円のお値打ち本が売り買いされるという世界。近頃は文庫本も値上がりしたもんだとぼやいているような貧乏人がお呼びでないことは承知していたが、「見るだけの人お断り」とはどこにも書いていないのをよいことに、いそいそと出かけた。

 和古書、洋古書、手稿、錦絵、古地図に写真に百万塔陀羅尼と、それぞれに特色ある商品とそれぞれに特色ある店員さんを擁するブースを端から順に訪ねていくと、書物や印刷物が辿ってきた道のりというものについて、つくづくと考えさせられた。
 展示されている品のひとつひとつを見ていくことで、書物をめぐる素材、形態、内容やその表現手法の変遷を、直接かつ具体的な事例でもって窺うことができる格好の機会である。
小さなパーチメント( 羊皮紙、紙の普及以前に書写材料として使われた )に金泥で文字を記した15世紀の手書き時祷書の断片を見ては、書物がとんでもなく貴重なものであった時代に思いを至らせ、 ペーター・シェーファー(*1)の工房で印刷された挿絵入りインキュナブラをハハーと拝み、ニュートンの初版本には「このページをヴォルテールがめくったかもしれん」と妄想力を刺激され、18世紀のフランスらしい小口装飾や華麗な金箔押し(中には盛大にひん曲がっているものも)に職人の手作業ということを思い、19世紀の出版界を彩るカラー挿絵本の数々に目を楽しませ、あたかも『図説・書物と印刷物の歴史』といった本でもめくっているような心地で、大いに楽しみかつ勉強させていただいたのである。
その間にも周りでは商談や逸品を巡るやりとりが交わされ、その雰囲気に後押しされてというわけでもないのだがえいやっとインキュナブラの一葉を購入してしまった。
それは1493年に初版本がアントン・コーベルガー(*2)の工房で印刷・出版された『ニュルンベルク年代記』(*3)のうちの一枚である。 これが錦絵や植物図譜の図版ページなど、一枚もので比較的手頃なお値段の印刷物が並べられたワゴンの中に、大したものでもなさげにひっそりと置かれていた。
彩色は施されておらず、紙のウォーターマーク(漉かし)もないとはいえ、西洋活版印刷術の誕生間もない頃、アルドゥス・マヌティウス(*4)がヴェネチアに印刷所を構えたり、ダ・ヴィンチがミラノで人力飛行を夢見たり、サヴォナローラ(*5)がフィレンツェで焼かれたりしていたその頃、の書物の中でも、超有名作品の一片。それが派遣図書館職員(=「薄給」と同義)たる私でも手の届く値段で売られていたことは驚きである。しかも、それがフェア開催二日目の午後遅くまで誰にも買われずにいたということにも驚いた。お店の方が梱包のための封筒を探しながら「本当は10万くらいしてもいいものなんですが...」とつぶやいていたのも驚きであった。
そういうのは買おうかどうしようか迷っているお客に対して言うもんじゃないかい?タイミング的に。 と内心でつぶやき返しつつ、A4サイズのものを二つ繋げた特大封筒に包まれた『年代記』を受け取り、鞄に入るはずもないので自転車の前かごに鎮座いただき、『E.T』のエリオット少年もかくやとばかりの高揚感と共に家路についた。

 帰宅後、詳しく調べてみると、挿絵に描かれている人物は教皇クレメンス6世、インノケンティウス6世、オスマン一世、『東方紀行』を記したフランチェスコ会修道士オデリコなどであり、どうやら14世紀人物伝の一部であることが判明した。
16世紀になると銅版画の発達に伴って、書物の挿絵もそれまでの木版画から、より緻密な表現が可能な上、版の摩耗も少ない銅版画にとって代わられるが、素朴さの残る15世紀の木版挿絵には、小ぎれいで写実的な銅版画にはない実直な魅力がある。紙に線を描くように版を引っ掻いて描いていく銅版画(凹版)に対し、描きたい線だけを残して周囲を掘り下げていかねばならない木版(凸版)、という、一本の線を描き出すために要する労力の差でもあるのだろうか。
 図像そのものの魅力もさることながら、凸版ならではの圧力を感じる版面もまた、他の印刷様式にはかなわない、「もの」としての強烈な存在感を放っている。15世紀のニュルンベルクに生きた絵師が下絵を描き、それを彫師が版に写し取り、印刷工が親方に檄を飛ばされつつプレス機のハンドルを回して製紙職人が腰を痛めながら作った紙に印刷し、コーベルガーが「うむ、出荷OK」と言ったその成果が、21世紀に生きる私の手元にやって来たかと思うと、感慨もひとしおである。

*1 ペーター・シェーファー(1425?-1503)
グーテンベルクの助手で、のちに資産家ヨハンネス・フストと提携して印刷・出版事業を行った。と言うと聞こえはいいがその経緯は、活版印刷術の開発のためにフストからの投資を受けていたグーテンベルクが、その借金を返せなかったために抵当である印刷機や活字を差し押さえられ、そうした印刷用具一式をそっくり手に入れたフストが、娘婿であり印刷技術にも通じていたシェーファーと組んでグーテンベルク抜きで活版印刷業を始めた、というわりと生臭いお話である。とはいえ商標としてのプリンターズ・マークや奥付を初めて導入し、色刷りの『マインツ聖詩集』をはじめとした美本を印刷・出版するなど、出版界におけるフスト&シェーファー功績は大きい。

*2 アントン・コーベルガー(1440年代−1513)
ニュルンベルクで製パン業を営む裕福な家庭に生まれ、1470年、同地に印刷所を開設した。コーベルガーの名が記載された最初の出版物である1473年の『哲学の慰め』以降、没するまでの40年間に、神学書を中心に、確認されているだけで236種の書物を発行した。コーベルガーの工房から出版された聖書13種のうち12種はラテン語、残りの一種はドイツ語で印刷されており、後者はニュルンベルクで印刷された最初のドイツ語聖書とされる。バーゼルやリヨンなどの印刷業者と提携し、パリやヴェネチアやブダペストといった主要都市に、出版物の販売と手稿の入手のために代理店を出すなど、国際的かつ大規模な営業を行った。最も景気のよい時には植字工、校正係、印刷工、彩色師、製本師など100人を超す熟練工を擁し、24台の印刷機を稼働させており、当時のヨーロッパで最も成功した出版人の一人であった。コーベルガーの死後は甥が商売を継いだが、出版業界の競争が激化したためか、はたまた二代目に創業者ほどの気概と商才がなかったためか、代替わりしてからわずか13年後の1526年に廃業した。

*3 『ニュルンベルク年代記』
人文主義者で歴史家であったハルトマン・シェーデルの著作。フォリオ版(全紙を二つ折りにした大きさ)でラテン語版とドイツ語版の二種類が刊行された(拙宅に来たのはラテン語版)。約600ページに渡る本文は大小の挿絵で飾られ、限定版は挿絵に手彩色が施されている。単に『年代記』あるいは『万国年代記』とも呼ばれる。聖書の記述や聖人伝にもとづく世界史や欧州各地の地誌、自然誌などを記し、最終章には世界の終わりと最後の審判の概要まで描かれているというスグレモノである。挿絵の数は全部で1809点にも上るが、使われた版木は645枚であり、要するに同じ版木がキャプションのみ変えて何度も使い回されている。挿絵を提供した画家ヴォルゲムートのもとには1486〜1489年の間、当時10代後半であったアルブレヒト・デューラーが徒弟入りしており、『年代記』の挿絵制作に参加していた可能性もある。ちなみにアルブレヒトの名付け親はデューラー家のご近所さんであったアントン・コーベルガーその人である。

*4 アルドゥス・マヌティウス(1450??1515)
イタリア・ルネサンス期を代表する出版人。王侯貴族の家庭教師として身を立て、45歳の時(1495年)ヴェネチアに印刷所を構えた。以降、モットーである「ゆっくり急いで」を意味する、錨にイルカがからみついた意匠をプリンターズ・マーク(商標)として掲げ、『Hypnerotomachia Poliphili(ポリフィリ酔夢譚)』や小型版古典双書をはじめとしたギリシャ語・ラテン語の古典作品を多数印刷・出版した。アルドゥスの古典双書は良質で装丁も美しく、よく売れたため、フランスやイタリアでは彼のプリンターズ・マークを勝手に使った海賊版が横行した。イタリック体の開発、句読点の用法の確立、小型本(八つ折版)の発行、ノンブルの使用など、現在も行われている規格でアルドゥスの工房に始まったものも多い。

*5 サヴォナローラ(1452年−1498年)
15世紀フィレンツェの修道士。共和国の政治顧問となるが、強硬な神権政治により、火刑に処された。


参考文献は以下の通りです。
『図説 本と人の歴史事典』1997 柏書房
『本の歴史』 2003 創元社
『西洋の書物』 1972 雄松堂書店







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