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コラム15 <本を残すということ準備科 長友 馨 

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本は滅びる

本は儚(はかな)い。

火をつければ燃え、ひどく水に濡れれば読めなくなる。少し油断すれば、虫やカビの恰好の餌食になる。いや、自分は万全の態勢で本を保管している、という人もいるかもしれない。だが、どんな人もいずれは亡くなり、多くの場合、遺族はその書物を疎んじ蔵書は散逸する。図書館のように専門家の集まる組織でさえ、安全を保証してはくれない。経費削減、蔵書整理、天変地異、政治体制の変化による焚書、戦争による空襲。・・・そう、本は儚い。そして、それはどこか、人の儚さと重なっているようにも見える。


本とその他の物品

しかし、物の壊れやすさという点だけをとってみれば、本と他の物品にそう大きな差があるわけではない。衣服、家具、住宅、電化製品、車。いずれも物である以上、いつかはなくなる。このような物品を、資料的価値や骨董趣味から残そうとする人も多い。だが、本については、それよりはるかに多く広範囲に、保存にむけた努力が執られているように見える。

本とその他の物品が異なるのは、人が内容を記しているところにある。したがって多くの場合、本は機能や性能、デザインよりは、そこに何が書かれているかが問われる。他の物品でも丹念に吟味すれば、人の思いや意図を見いだすことはできるだろう。しかし本の場合はただ開くだけで、生々しいくらい直截的に情報を、あるいは作者の意図や思想を読み手にぶつけてくる。ゆえに本は、他の物品よりもはるかに明瞭に人を映しているのだ。

何かを残そうとするのには、さまざまな動機がある。資料的価値の高さ、個人的な思い入れ、自分の所有物を減らすことへの本能的なおそれ、金銭的価値、社会習慣や信仰上の理由などなど。しかし、数ある物品の中でもひときわ強く本を残すよう駆り立てられるのは、人が本の中に自身の姿を、さらには人の儚さを、見いだしてしまうからではあるまいか。


時は流れ、分離は進む

・・・話がどうもセンチメンタルな方向に流れた。もう少し今日的な問題に目を向けよう。

古来、本は手で書くものだった。いわば、すべてが一点もの。現在、我々が本に対して思い描くよりはるかに大きな、計り知れない価値がそこにはあった。いきおいその造本は堅牢性と保守性 − つまり簡単には壊れず、いざとなれば修復できることが重視される。そして一点ものであるがゆえ、その装束も手のかかったオートクチュールになる。時には宗教的な権威を強調し、時にはそこに記されている情報の価値を喧伝する装丁が施される。この頃、造本や装丁と本の中身の間には、分かちがたい結びつきがあった。

グーテンベルクによる活版印刷の発明で、本を取り巻く事情は一変する。それまで一点ものしか作れなかった本を、いくつも同時に生産できるようになったのだ。

もちろん、活版印刷は本の中身を大量に複製する手段に過ぎず、装丁や造本には手作業が必要だ。製本作業では、本の中身が強く意識され、装丁/造本と中身の結びつきはまだまだ強かった。・・・だが、おそらくグーテンベルク以降、本を作る労力が大きく軽減されたことにより、造本にも「効率」という概念がちらつくようになってきたのではないだろうか。それまでは密接に関わり合ってきた、本の中身と装丁/造本。しかし、このときからおそらく中身と器 − ソフトウェアとハードウェア − の分離が始まったのだ。

時代を経て産業革命が起こり、機械による造本が可能になると、この流れは決定的になる。もちろん、ウィリアム・モリスのように本の総体をひとつの芸術品と考える人もいたのだが、大きな流れを変えるには到底至らなかった。第二次大戦を経て大量生産の時代になると、造本工程の効率化はさらに進み、本の中身に対して装丁はずいぶん軽んじられるようになった。そして二十一世紀になった現在、電子化によって、本におけるソフトウェアとハードウェアの分離は完遂しようとしているかに見える。

それに伴って、本の残し方に、これまでとは違う考え方が生まれることになった。


中身さえ残ればいいのか

従来は本を残そうとすると、書物をそのハードウェアごと保存するするよりほかなかった。だが電子化では、書物のソフトウェア、つまり中身だけを残すことが可能になる(中身しか残せない、とも言えるが)。

電子化された書籍にある程度慣れ親しむと、意外にこれでも用が足りることに気づく。表示面では欠点もあるが使えないほどではない。むしろ取り回しが楽で快適だし、検索のような便利な機能も備えている。・・・必然的に「本は中身さえあればいい」という考え方が生まれてくることになる。

これは、ある一面では正しい。たとえば、現在むやみに発行が続いている新書を見てみればいい。文庫ではかろうじて残っていた表紙デザインの多様性すら失われ、単なる文字情報のパッケージと化している。このような本に「装丁や造本も本の重要な要素だ」と言ったところで、その言葉はむなしい。もちろんこのような本も、「人を映して」はいるのだろう。だが、血肉をそぎ落とし骨格だけが残った本を見せられて、そこに人間味を感じろと言われても無理な話だ。これでは、物として本を残すよう人を駆り立てる力は持ち得ない。淋しいことだが、今の世の中、中身だけ残っていれば十分という本であふれている。

しかしその一方で、「中身さえあればいい」というのは大きな誤りでもある。「中身さえあれば…」という言い分があてはまるのは、大量生産で装丁/造本が画一化された書物だけだ。先に述べたように、かつて装丁と本の中身は切り離せないほど密接な関係だった。そのような書物で中身だけを抽出してしまうと、重要なエッセンスが確実に失われる。

たとえばCodex Gigasと呼ばれる、世界最大の中世写本がある(この本には、こんな伝説が残っている。ある僧が戒律を犯し死罰を受けることになった。だが一晩で、世界最大の本を作成すれば罰が免じられる。そこで、その僧は悪魔の手を借り、一晩でその巨大な本を作り上げた・・・)。この本の、縦92cm、横50cmという大きさや、20cmに及ぶ310葉のたわんだ羊皮紙の厚み。それらを無視してただ電子化し、中身だけ残したとして、この本が示したかったことが、どれだけ我々に伝わるというのか。

Codex Gigasは極端な例かもしれない。だが、普通の本であっても、その綴じ方、素材、さまざまな構造など、中身でないところにも知恵や情報はあふれているのだ。「中身さえ残ればいい」という考え方に簡単に与してはならない。


電子化の効用

では、電子化は不完全で無粋な行為なのかというと、もちろんそんな単純な話ではない。

書籍の電子化は往々にして、既存の紙の書籍を駆逐するといった風に語られるが、本の保存と電子化は必ずしも対立する概念ではない。バーチャルとはいえ本の複製が、レプリカを作るよりはるかに容易に作成されるのだ。バックアップの多重化という観点からも好ましく、むしろ保存方法の選択肢は増えたことになる。

劣化が激しく、破損の危険がきわめて高い場合は特に、電子化が有効な手立てになる。書物もろとも失われようとするものを、中身だけとはいえ確実に後世に残すことができる。閲覧の自由度も高まる。人の手が触れる機会が減り、本そのものの延命にもつながる。

 しかし、電子化だけで満足していてはならないのだ。新しい技法と、歴史的に受け継がれてきた技法。両者の使いどころを見極め、バランスよく利用することが重要なのである。

 冒頭で、本と人は重なると記した。その伝で言えば、電子化による本の保存は、人の姿を写真に撮り、音声を録り、ビデオに残す行為だ。しかし、そのような行為に明け暮れるあまり本人を軽んじたり、その命を長らえさせるための努力を怠ったりするようでは本末転倒なのである。           

以 上


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