レポートVol.57     高野山(和歌山県) 「和紙の会」レポート

高野山(和歌山県) 「和紙の会」レポート     修復基礎 II 長田克規  

  • 1.地理/交通

    ■高野山

    弘法大師空海が816年に真言密教の修行の道場として高野山を開き、標高約900Mの山上に多くの寺院が建ち並ぶ。大阪難波駅から高野山まで南海電鉄特急「こうや」で約1時間30分。間もなく開山1200年を迎える高野山では、記念行事が行われる。

    ■高野紙とは

    高野紙は、高野山の麓の10の地域で漉かれた紙の総称である。古くから高野山の麓で紙漉きが盛んに行われ、地域ごとに古沢紙、細川紙、河根紙といった細分呼称もあるが、すべて高野紙である。

    ・和歌山県九度山町

    下古沢、中古沢、上古沢、椎出、笠木、東郷、河根、繁野

    ・和歌山県高野町

    細川、西郷

    高野町高野町

    滅亡高野紙見聞図説より引用
    九度山町史より引用

    下古沢が標高約170Mに対し、細川は標高約360Mと深く険しい谷あいに集落がある。さらに、寺院がならぶ高野山上は標高約900Mになる。

    高野山にある寺院の写経料紙として漉かれてきた高野紙は、江戸時代になると傘紙や障子紙など大衆向けの用途にも使われるようになった。やがて、明治時代を迎えた後は、洋紙の生産拡大にしたがって徐々に生産戸数が減少していき、昭和40年ごろに下古沢に住む中坊さん1戸を残すのみとなるが、中坊さんはその後も平成19年まで高野紙を漉き続けた。飯野さんは高野町史編纂室に勤務する傍ら、平成14年ごろから中坊さんを訪ね、試行錯誤のなか高野紙の技法を引き継ぐこととなった。高野紙は、地域によって若干の違いがある。たとえば中坊さんが住んでいた下古沢と、「和紙の会」が開かれる細川では、紙の出来上がりの寸法が多少異なる。

    江戸時代に細川の集落で漉かれていた「細川紙」は良質な奉書紙として江戸幕府にも納められ、現在日本政府がユネスコの世界無形文化遺産として提案中(*2014年3月執筆時点)である埼玉県小川町の「細川紙」の名前の由来にもなっている。

    高野山の麓は、素朴な紙漉きの方法が遠い昔から形を変えないまま、手から手へ途切れず今も伝わる貴重な場所。細川にある旧西細川小学校で飯野さんが定期的に開いている「和紙の会」では、原料・道具・工程にいたるまで、手作りによる高野紙の方法を自由気軽に体験することができる。

    レポートでは、2013年7月に高野山で開かれたアートイベント「HappyMaker2013」をきっかけに訪ねることになった「和紙の会」の訪問記録と、高野紙の歴史をまとめる。

    1.訪問記録 「和紙の会」体験(2013年7月~12月)

    ・訪問場所 和歌山県高野町 旧西細川小学校「和紙の会」

    ・紙漉き師 飯野尚子さん

    ■2013年7月6日 曇り 「高野山HappyMake2013」

    ■■きっかけ

    以前から「高野山で紙を漉いている人がいる」と耳にするものの、具体的な情報になかなかたどりつかなかったある日、高野山で「HappyMaker2013」と呼ばれるアートイベントが行われることを知る。7月の数日間にわたって高野山内のさまざまな寺院でアート作品の出展やイベントが催され、会場マップのなかに「紙漉きワークショップ」の記載もある。「ここに行けばだれか紙漉き職人さんに会えるのでは?」と企みつつぶらり出かけると、予感が的中。紙漉きのワークショップ会場で飯野さんとはじめてお会いし、紙漉き体験をしたり、高野紙にまつわるお話しをいろいろ伺う。

    2013年7月6日2013年7月6日

    飯野さんが、高野山のふもとの紀伊細川駅近くにある旧西細川小学校で「和紙の会」の体験会を定期的に開いていることを知り、さっそく次回お伺いする約束をする。その後、HappyMakerの会場を散策して帰る。

    2013年7月6日2013年7月6日2013年7月6日

    <高野紙の歴史(1) -弘法大師空海->

    空海は774年に讃岐地方、現在の香川県善通寺市に生まれ、幼いころの名を佐伯真魚(まお)という。

    804年に遣唐使船で唐へ渡り、唐の都長安に入る。翌年、空海が密教の正当な伝承者である恵果和尚を訪ねると、恵果和尚はすぐさま空海を次なる伝承者と定め密教のすべてを伝授し、空海がこれを継承する。インドで生まれた密教が、中国の高僧に受け継がれ、空海が日本へ持ち帰るまで八代に及ぶ密教の祖師を「伝持の八祖」とよび、空海は八人目の祖師となる。そして806年、唐から日本へ帰国する。

    816年、空海は「吉野より南へ行くこと一日、さらに西に行くこと二日にして平原の幽地あり。名づけて高野という」と上奏文を記し、嵯峨天皇へ高野山で修禅の道場を開くことを願い出て勅許がおり、真言宗を開く。

    「空海の風景(下)」司馬遼太郎 (中公文庫, 1978年)

    かれは、日本文化のもっとも重要な部分をひとりで創設したのではないかと思えるほどにさまざまなことをした。思想上の作業としては日本思想史上の最初の著作というべき『十住心論』その他を書き、また政治的には密教教団を形成し、芸術的には密教に必要な絵画、彫刻、建築からこまごまとした法具にいたるまでの制作、もしくは制作の指導、あるいは制作法についての儀軌をさだめるなどのことをおこなっただけでなく、他の分野にも手をのばした。

    「司馬遼太郎 歴史のなかの邂逅1 空海~豊臣秀吉」
    司馬遼太郎 (中央公論社, 2007年)

    私はかつて、上代における佐伯部という種に興味をもったことがある。 彼らは、その後の日本文化の基底になった弥生式文化のにない手である日韓人とは別系統の種族らしく、おおざっぱにいえば、近畿に強力な権力が成立していた時期、なお東国にあって縄文的な生活様式を持続していた種族であるらしい。言語も違っているようである。要するに、蝦夷と総称される漠然たるあの異人種の一グループなのであろう。畿内人の言語と違った言語を用いていたらしいことは、彼らの佐伯の呼称が、サエギ、騒ぎ、というあだなからでたらしいということから察しうる。耳慣れぬ言語というのは、騒がしく聞こえるからである。

    (略)

    讃岐(香川県)にも、佐伯部がいた。そのグループのなかから空海が出た、とかつて私はそのことを面白く思いすぎ、そうでなければ空海のような、およそ日本人ばなれした、というより弥生式文化型からかけはなれた異質の天才が出現するはずがない、と思っていた。われわれは縄文人の美意識を、たとえばあの奇怪な装飾性と呪術性に象徴することができるであろう。それが、日本の思想史上の空海の存在と、イメージがぴったり重なるように思えたのである。

  • ■2013年8月3日 晴れ 旧西細川小学校「和紙の会」体験

    ■■はじめての参加

    はじめての「和紙の会」参加の日。

    険しくて深い谷あいを眺める南海電鉄の紀伊細川駅に到着。真夏の晴天下、周辺は静かで、蝉の声とときどき急な線路のカーブを通り過ぎる電車の音が聞こえるのみ。点々と並ぶ小さな田んぼには緑色の稲穂が育つ。集落へ向かって急な坂道を下り、グレーの変電所の建物を曲がり、小川に沿って15分くらい歩くと小さな旧西細川小学校へ到着。小学校の中へ入ると、飯野さんが迎えてくださる。

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    ■■サクリ

    楮の黒皮を削る「サクリ」と呼ばれる作業。黒い皮がついた楮を水につけて柔らかくしておいてから、小刀で薄く黒い表皮をとる作業を「サクル」という。「サクル」前の楮が黒皮で、「サク」った後の楮が白皮になる。

    飯野さんが楮をあらかじめ水につけて準備をしてくださった黒皮を、カッターを使って削り取っていく。最初はもちろんまったく上手くできない。 何回か繰り返していくと、どの部分まで刃をいれたらよいかだんだんコツがわかってくる。表面の黒皮と白皮の間に薄い緑色の部分があり、緑色の部分の奥まで刃をいれてめくると効率が良いらしい。

    2013年8月3日2013年8月3日

    「高野紙」中川善教 著(便利堂, 1941年3月)

    下古沢では黒皮を村を貫く古澤川の流れに浸している。一時間から半日程漬ける。十分に水を含んでふくらんだ楮の表皮を次に小刀でこそげとる。これをサクルと云う。三貫目一束の楮をサクルのが一工前即ちひとり一日の工課である。

    ■■旧西細川小学校

    旧西細川小学校は、平成17年に廃校になった。小さな2階建の校舎には、紙漉き場がある調理場、職員室、理科室、音楽室、図書室など、ついさっきまで授業をやっていたような気配がそのまま残る。

    体育館の青いシートの上に置かれているのは、飯野さんが高野紙の教えを受けた中坊佳代子さんから譲りうけた楮の黒皮。 「和紙の会」では、高野山で採れる楮とトロロアオイを原料に使い、毎年秋には高野山上へススキを採りに行き、紙漉きに使う萱簀も編んで作っている。また、小学校にある漉き舟、ビーター、紙漉きに使う簀桁など、いろいろな道具も中坊佳代子さんから譲り受けたものをそのまま使っている。

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    ■■トロロアオイ

    トロロアオイを育てている小学校近くの畑へ案内していただく。飯野さんによると「トロロアオイは育ってきたら、ネリの原料につかう根を大きくするために膝から上の部分を切り取る」らしい。

    下の写真は東京、紙の博物館のトロロアオイの花

    2013年8月3日

    <高野紙の歴史(2) -高野紙のおこり->

    書や詩の才能にも秀でた空海は筆や墨などの製法も唐で学び、その後日本で制作し献上した記録がある。紙の製法も空海が唐から持ち帰り高野山の麓に住む人々へ教え伝えたのかどうかは、史料からはわからない。

    開山当時、険しい高野山上にある寺院で使う料紙を遠く離れた都から求めることは困難なため、高野山のすぐ近くで紙を生産することが求められ、開山して間もなく高野山の麓で紙漉きが発生したであろうことは想像しやすい。

    『弘法大師行状絵詞』巻第十二「仙院臨幸」の段で、寛治二(1088)年に白河上皇が高野山へ行状した様子を描いた絵巻に、高野山の麓の古沢の地域で行われる紙漉きの風景が描かれており、すでにそのころには高野山の麓で紙漉きが盛んに行われていたことがうかがえる。

    2013年8月3日2013年8月3日2013年8月3日

    「弘法大師行状記」 一音 (一切経印房, 1894年)

    寛治二年二月二十四日に高野の政所へつかせ給ふ。(略)同二十五日の丑の刻に御歩行にて御登山あり。夜の中たるによりて、侍臣以下松明をとる。奇巌嶮岨(きがんけんそ)の路をも雲影に伴いて、深谷縦横の梯をも鳥聲を隔(ふん)でわたる。

    ■2013年9月7日 曇り 旧西細川小学校「和紙の会」体験

    季節が進み、山の斜面にならんだ田んぼの稲穂が黄色く垂れはじめ、まわりの木々からツクツクボウシの声が聴こえる。2回めの紙作りの体験参加。

    ■■取材

    小学校に着くと、講談社さんの取材チームが飯野さんの紙漉きの様子を取材していて、法衣をまとった高野山金剛峰寺のお坊さんもいっしょに見学されていた。高野山が開かれてから間もなく1200年記念の迎える節目に、高野山を紹介する本を出版するため、高野山各地を取材されているとのこと。

    2013年9月7日2013年9月7日

    ■■煮熟、叩解、紙漉き

    釜に楮の白皮をいれてソーダ灰を加え1時間ほど煮てから、木槌で白皮を15分くらい叩いて繊維をほぐしていく。トロロアオイで作ったネリと、叩き終わったコウゾを漉き舟のなかに入れてよくかき混ぜ、繊維を撹拌させる。

    漉き舟は、飯野さんが教えを受けた中坊佳代子さんから譲り受けたもの。木で出来た漉き舟には、白く乾燥した楮の繊維が綿のようにたくさんくっついている。紙を漉く時お腹が漉き舟にあたるところに付けられているグレーのクッションも、中坊さんが昔から使っていたものそのまま。

    漉き舟のほかに、黒皮を削る小刀、木製のビーター、萱簀、桁など、中坊佳代子さんから譲り受けた道具を使って紙を漉く。

    水のすくい方、桁を揺らすタイミング、水を捨てる程度など、飯野さんに手順を教わりながら何回か自分で紙漉きをしてみる。が、当然ながら上手く漉けない。理屈より感覚。紙を漉くときに使う桁の大きさは50cm程度で、昔と変わらない形。

    2013年9月7日2013年9月7日

    ■■なぎなたビーター

    中坊佳代子さんから譲り受けた「なぎなたビーター」が、いまは旧西細川小学校の倉庫に置かれている。水槽の中に水と楮の白皮を入れてからスイッチを入れると、なぎなた状の刃がぐるぐると回転し水流が発生するなかで、回転する刃が楮の繊維を一本一本ほぐしていく。動力は電気で、現在もときどき飯野さんが使用しているとのこと。

    <高野紙の歴史(3) -中世の和紙->

    「和紙の歴史-製法と原材料の変遷-」
    宍倉佐敏(財団法人 印刷朝陽会, 2006年)

    奈良時代の留め漉き法で漉かれた古代紙と異なり、中世の紙の片面の繊維は一方向に流れが見られる。これは近世の手漉き製紙法の一つである、「初水」又は「化粧水」と呼ばれる原料液を簀面に流す流し漉き法の最初の工程が、平安時代前記の頃からは留め漉きの製法に加えられて、中世の和紙の製法になったと想像出来る。この工程があると、漉いた湿紙を簀面から床面に移しやすく、脱水した後も一枚一枚に剥がし易く、紙面が平らになる利点がある。

    中世の書写料紙は厚いことも重要であるから、手漉き時の「初水」又は「化粧水」の後は、漉き枠内に原料液を多量に汲み込み、最後は漉き枠の動きを停止して濾水する手漉き法(近世の和紙製法にある「捨て水」の工程が無い)が行われたと考え、これを「半流し漉き法」と呼ぶことにした。

    鎌倉時代から室町時代前記頃まで、手漉きの途中で漉き枠の動きを停止して、紙の厚みを調整して漉いていたと思われる。室町時代後期から江戸時代前記頃までは、漉き枠の動きの停止時間が少なくなり、繊維の流れが多くなって、紙の表面が平らになる製法(流し漉き)が取り入られた。

  • ■2013年10月6日 晴れ時々曇り 旧西細川小学校「和紙の会」体験

    ■■楮でない桑の木で紙を漉く

    筆者の家に1本だけ生えている桑の木を持っていく。コウゾに似ているがコウゾではない。何の種類の桑かはわからない。コウゾは人の手で交配と改良が行われてきた歴史があり、白い良質の繊維がたくさん採れる。この木でも紙が作れるのか?、飯野さんに質問すべく朝に刈り取り持参する。

    2013年10月6日2013年10月6日

    桑の枝は細く、紙を作ることは無理だろうと思いつつ飯野さんに尋ねてみると「さっそくやってみましょう」と、釜が置いてある調理場へいき、釜で15分少々ソーダ灰を加えて煮た後、熱いまま皮を剥ぎ、黒い皮を削り、薄く緑色がかった白皮を木槌でたたく。一連の作業を手早くおこない、名刺サイズの簀桁で紙を漉く。結果、自宅で1日干した後、予想を超えて紙らしい紙が出来上がる。

    たとえばイチジクも桑の木の仲間であり、ならばイチジクの木の繊維でも紙が作れるのではないか?と想像してみる。

    2013年10月6日2013年10月6日

    <高野紙の歴史(4) -江戸時代->

    かつて高野紙は高野山上の寺務や写経料紙として漉かれていたが、江戸時代になると、細川の地域で漉かれた良質な和紙は「細川奉書」として江戸幕府に納められ重視されていた。御三家のひとつである紀州徳川家が、この地を治めていたことも関係するのかもしれない。そしてこの細川奉書は、埼玉県小川町で現在も作られる「細川紙」の名前の由来にもなっている。

    一方で、江戸時代になると傘紙や障子紙など一般の需要にも応じて漉き始められ、やがて問屋制家内工業として紙問屋から毎年原料の楮や生活費を前借りし、紙が漉き上がってから差し引き勘定する形で行われるようになる。そうして紙問屋は、大阪、堺、播州などの紙商と取引をしていた。

    「高野紙手漉業地域の変貌」小池 洋一(和歌山大学 人文地理 10(5-6), 1959)

    紀伊続風土記の高野紙の条に、慶長15年8月15日の評定として「今時は細川奉書を漉かずまた調貢のことも止みぬ」とあるが、調貢の事実のあったことを物語っている。

    「高野紙手漉業地域の変貌」小池 洋一(和歌山大学 人文地理 10(5-6), 1959)

    古くは「製紙の術を他に弘めじとの起請文を書して後婚をなす」ほど技術は秘法とされた。

    ■2013年11月2日 晴れ時々曇り 旧西細川小学校「和紙の会」体験

    2013年11月2日2013年11月2日

    ■■楮の黒皮をサクる

    黒皮の状態の楮を準備し、「サクリ」の作業から始める。楮の黒皮を5分ほど水に浸したあと、カッターを使いながら、コウゾの根本のほうから先端に向かって黒皮を黙々と剥いでいく。

    慣れない手つきで2~3時間かけて削り続けるが、黒皮のまま楮がたくさん残る。

    2013年11月2日2013年11月2日

    <高野紙の歴史(5) -明治、大正、昭和初期->

    明治時代以降、高野紙は主に傘紙、障子紙として使われ、紀州の和傘づくりは大正から昭和にかけて全国で3番めの生産高を記録していた。

    年代ごとに、高野山麓での紙漉きの軒数の記録をまとめる。

    (1)慶応3年

    ・下古沢65戸

    (2)大正11年

    ・下古沢100戸

    (3)昭和15年1月

    ・上古沢 13戸

    ・中古沢 11戸

    ・下古沢 53戸

    ・稚出 16戸

    (4)昭和30年ごろ

    ・下古沢5戸

    (5)昭和40年ごろ

    ・下古沢1戸(中坊君子さん、中坊佳代子さん)

    (6)平成19年まで中坊佳代子さんの紙漉きがつづく

    ■2013年12月7日 晴れ 旧西細川小学校「和紙の会」体験

    ■■ほうらい切り

    高野紙を使った「吉祥宝来」と呼ばれる切り絵を作る。吉祥宝来は、古来より新年を迎えるにあたって福を招くしめ飾りとして家の床の間、玄関などに飾られる。

    険しい高野山の谷あいは日射が少ないため、しめ縄の材料の稲穂が十分に採れず、そのかわりに高野紙で干支の模様などを施した切り絵をつくり、正月家に飾り招福を祈ってきた。

    午や辰など干支の絵柄をカッターをつかって切っていき、赤い台紙を添えて完成。

    2013年12月7日2013年12月7日

    ■■コウゾを植える

    下古沢の道路沿いに生えている野生のコウゾを何本か抜き取り、和紙の会でいつもご一緒する柴田さん家族の畑に植えてみる。

    細い枝が根本からスッと人の背丈くらいに伸びている姿が特徴。畑に植えかえられたコウゾのひょろっとした姿が心細い。冬を越せるか?

    2013年12月7日2013年12月7日

    <高野紙の歴史(6) -昭和後期->

    昭和57年の中坊君子さんのインタビュー記事からの引用。

    「女性教養」日本女子社会教育会 (日本女子社会教育会, 1982-08)

    (中坊君子さん)

    このへんは紙ばっかし、なにもなかった。五十年前までは、高野下まで降らんと乗り物もなかった。十の在所はみんな紙漉きやっとった。それと高野にお参りの人のかごかきやっとった。うちの父親もよく今日のお客さんかごに載って二拾銭くれたいうてよろこんで。

    みんな傘の紙よ。うちの母親がいうとったで、お大師さんがこの仕事さずけてくれて、「これで一升食うて、五合金もうけよ」いうて、そいで後へ後へつづけてきたそうな。

    (インタビュアー)

    在所の家が皆紙漉きを止めた後も続けて今まで来られたわけは何ですか。

    (中坊君子さん)

    不思議なことよ。戦争になって、傘に塗る油なくなってしまうし、洋傘にかわって紙だんだんいらんようになって、皆、電車の駅員になったり、みかんや柿植えだしたけんど、うちのお父さん四十二の厄で亡くなって、そん時三十四歳で7人の子抱えて、姉娘(中坊佳代子さん)がいっしょに紙漉いてくれたんよ。戦後も紙やってたんで、紙と食べとるもんと取り替えて、後へ後へ紙漉いて何とかこられたんよ。周囲の人はみんな着物と食べ物と替えてたころよ。

    一番下の今四十二歳になる息子が水泳の選手になってローマまで行ったんやが、そのたびに東京まで四回も見送りに行ってかばん買ったり小遣い持たせたり苦労やった。近所の人になんぼ金あっても外国まで行ける選手になれんよいわれて頑張ったんよ。メダルたくさんもろうて、みんな見にきてくれた。

    ほんまに働くばっかりやったんよ。一昨年のことに、足弱ってきてこけて、ひざ悪うして町まで息子に自動車に乗せてもろうて治療に通ったんやが、体も弱ってくるし、目もとろうなって、今年の冬はどないして作ろうかと思うけんど、皆がお大師さんの紙やさかい作れ作れ、頑張れいうてくれる。娘がゴルフ場に勤めているんで、休みの日だけ紙漉してくれるけに、ここまで続けられたんよ。

    次回のレポートでは、2014年1月から3月の「和紙の会」での体験の映像記録と、飯野さんが高野紙を漉くに至るまでの経緯を記録にまとめる。

 

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