レポートVol.53     奈良・吉野 福西和紙本舗 レポート

奈良・吉野 福西和紙本舗 レポート     修復基礎 初級 長田克規

  • 1.訪問記録

    ■訪問日

    平成24年10月22日(月) 午後 快晴

    ■訪問場所

    福西和紙本舗

    ■住所

    奈良県吉野郡吉野町窪垣内218-1

    ■移動

    午前中の植和紙工房、物産館の訪問の後、午後からふたたび植さんのトラックに乗せていただき、福西和紙本舗へ向かう。福西和紙本舗は細い急な斜面を上がった高台にあり、窪垣内周辺の風景を見渡せる。

    福西和紙本舗福西和紙本舗

    しばらく入り口の前で植さんとまわりの風景を眺めた後、福西さんのお宅のなかへお邪魔する。

    ■福西和紙本舗について

    訪問の後日、11月30日に京都で開催された国宝修理装潢師連盟定期の「第18回国宝修理装潢師連盟定期研修会」へ、講演会は無料だったため事前に申し込んで聞きに行った。京都国立博物館館長の佐々木丞平氏の「文化と文化財」の講演、そのほか国宝修理の事例報告など。

    会場のパネル展示で、国宝修理で使われる和紙を生産してる工房(伝統的製紙技術)の紹介に福西和紙本舗の掲載があり、以下はそのパネル展示からの抜粋。

    展示パネル「伝統的製紙技術に関する現地調査データシート」展示パネル「伝統的製紙技術に関する現地調査データシート」

     

    (1)展示パネル 「伝統的製紙技術に関する現地調査データシート」で掲載されていた工房一覧

    (掲載順)

    「貞豊三岔河(ていほうさんたが)伝統造紙茶房」

    ・場所:中国貴州省 黔西南(けんせいなん) 布依(ぶい)族苗(みゃお)族自治州 貞豊(ていほう)県龍井(りゅうせい)村

    ・楮紙

    「丹寨石橋(たんさいせっきょう)伝統造紙作房」

    ・場所:中国貴州省 黔東南(けんとうなん) 苗(みゃお)族侗(とん)族自治州 丹寨(たんさい)県石橋(せっきょう)村

    ・楮紙

    「志康宣紙廠」

    ・場所:中国四川省楽山市夾江県銀華村

    ・竹紙他

    「壮元書画紙廠」

    ・場所:中国四川省楽山市夾江県銀華村

    ・竹紙他

    「梁平伝統造紙作房」

    ・場所:中国重慶市梁平県七星鎮

    ・竹紙

    「中国宣紙集団公司」

    ・場所:中国安徽省宣城市涇県烏渓

    ・宣紙

    「聞慶韓紙匠 金三植工房」

    ・場所:韓国慶尚北道聞慶市

    ・韓紙

    「長谷川和紙工房」

    ・場所:岐阜県美濃市蕨生

    ・美濃紙

    「上窪和紙工房」

    ・場所:奈良県吉野郡吉野町

    ・美栖紙

    「福西和紙本舗」

    ・場所:奈良県吉野郡吉野町

    ・宇陀紙

    「西田和紙工房」

    ・場所:島根県浜田市三隅町

    ・石州和紙

    (2)福西和紙本舗について、パネル展示の掲載内容からの抜粋

    製紙所名

    福西和紙本舗

    紙の名称

    宇陀紙

    用途目的

    表具用紙等

    歴史(沿革)

    選定保存技術保持者の福西弘行氏は宇陀紙を漉く5代目。現在は6代目の正行氏が大半の仕事を行なっている。

    経営規模

    家族経営(4人)

    生産量

    日産 約200枚

    <原料>

    植物種

    採取場所

    地元産(修理用)

    加工状態、加工方法

    自家栽培の楮を自ら白皮にした後、川晒しを行い、天日で干し上げて使用する。

    <原料下処理>

    下処理方法

    先に、はさみやかみそりの刃で傷を取る。

    使用する水

    地下水

    <煮熱>

    煮熱方法

    木灰を熱湯で撹拌し静置した上澄み液を使用する。この作業にて得た木灰液で4貫の楮を煮る。

    煮熟剤

    木灰

    洗浄方法

    地下水で洗浄する。洗浄しながら気がつく塵を除く

    塵取り

    無し

    漂白処理

    無し

    <叩解・離解>

    叩解方法

    手作業(木槌)

    離解方法

    手作業

    方法

    機械で約1時間粗打ちし、その後、手打ちを1時間行う

    離解方法

    手作業

    <抄紙>

    漉き方

    流し漉き

    (*注:福西弘行さん、植さんから伺ったお話しでは「留め漉き」とのこと。詳細は後述。)

    方法

    紙料を漉きこんだ後、縦方向に流し、その後簀桁を桟の上において自然ろ過させる。その後もう一度組み込み同様の作業を行う。

    ネリ材料

    ノリウツギ

    その他填料

    地元産の白土を用いる

    萱簀

    簀の目3cmあたりの本数

    22本(糸目間隔3cm)

    規格

    148.5cm×32.2cm

    抄紙の時期

    通年

    抄紙後加工

    無し

    特記事項

    小判(3枚取り)と長判がある

    サイズ剤添加

    無し

    <乾燥>

    圧搾

    する。

    紙床の状態で一晩置いた後、1日かけて圧搾し、その翌日に板に貼り付ける。

    乾燥方法

    板干(天日)

    乾燥板種類

    ■福西弘行氏

    福西和紙本舗ホームページから抜粋

    http://www.synegeo.com/fukunishi/fukunishiwasihonpo.html

    初代創業江戸時代末期より現在弘行五代目継ぐ。

    昭和18年 春

    国栖尋常高等学校卒業後、両親の紙仕事の手伝いに入る。

    昭和20年

    現在の大漉道具に切り替えて紙漉きの技法を教わる。

    昭和37年4月

    義宮殿下、紙漉き見学御成り。

    昭和53年5月9日

    選定保存技術保持者に認定なる。

    平成7年

    宮内庁書陵部より修復用の和紙御用達賜り、その後、年代に応じた和紙を作成の上納めている。

    平成8年5月

    奈良県より伝統工芸品産業功労表彰

    平成8年6月

    奈良県より伝統工芸士任命

    平成12年4月

    勲5等瑞宝章授章

    平成19年

    文化庁長官表彰

    平成20年

    園遊会に招かれ天皇皇后両陛下からお言葉を頂戴する。

  • ■福西正行さんの紙漉きを見学

    植さんといっしょに福西さんのお宅の中へお邪魔すると、作業場で正行さんが紙漉きの作業を行なっていた。

    弘行さんの奥さんと植さんが椅子に腰かけながら世間話をするそばで、僕は漉き舟がある作業場へ入らせて頂き、正行さんの紙漉きの作業を至近距離で観察する。

    作業場はステンレス製の漉き舟に紙棚(*注1)、白土と混ぜられた楮の紙餅(*注2)、計量器、ノリウツギがはいったバケツなどが並ぶ。楮と白土が溶けた白色の漉き舟を、正行さんが長い棒でかき混ぜる音が響き続ける。かき混ぜる作業が終わると、簀桁で紙を漉く準備に入る。

    向こうから手前にむかって簀桁で水をすくい上げ(*注3)、簀桁を一定のリズムで前後にゆらす。簀桁の大きさは、おそらく奥行きが30cm~40cm程度、横幅が150cm程度と思う。簀桁は深い紅色で塗られていて美しい。

    兵庫の播州ちくさ手漉き和紙工房で体験したときは、紙漉きは水をすくい上げるので、簀桁が大きくなるにしたがいすくい上げる瞬間の重さがどんどん大きくなる。播州ちくさ手漉き和紙工房で体験したときは、30cm×30cm程度の大きさの簀桁でも、水をすくった瞬間かなりの重さを感じた。

    したがって、正行さんが持っている大きさの簀桁の場合、仮に大きさが150cm×35cm、深さが3cmとしても、水を満たしたときの重さは単純計算で15kg程度になる。

    ゆえに、紙漉きの作業場では天井に竹の棒を何本かとりつけ、竹の棒と簀桁のあいだを紐で吊るし、竹のしなりで紙を漉くときの重量を和らげる(*注4)。とはいうものの、想像すると、この作業を1日繰り返す紙漉きの作業はかなりの重労働と思う。

    簀桁を漉き舟につけ、向こうから手前に水をすくって簀桁に水を入れる。すくい上げた後、決まった一定のリズムで簀桁を前後に揺らす。その間に水が簀の間を落ちていき、湿った楮の繊維が簀桁全体に行きわたる。そして簀桁を置く。続けて、桁を簀から枠を外し、周囲の余分な楮の繊維を取り除く。簀をひっくり返しながら、後ろにある紙棚にゆっくり湿紙(*注5)を重ねる。少し間を置いた後、湿紙から簀をゆっくりと離す。(後に紙を取るときの目的で?)湿紙の端に長く細い糸を置く。そしてふたたび簀の上に桁を置き、漉き舟から水をすくい、次の紙を漉き始める。

    そばの時計を眺めていると、簀桁で水をすくって漉き始めてからふたたび次の紙を漉き始めるまで、作業の1サイクルは約60秒。一定のリズムで繰り返されていき、見ていて心地がよい。

    特に美しいのは、簀桁の中をうごく水の波紋の形。簀桁で水を入れて、決まったリズム簀桁を前後にゆするとき、白い水の波紋の形が、毎回ぴたり同じで狂いが無い。そして、桁をゆする最後のタイミングで、水の波紋が簀桁の真ん中で打ち合って終わる。毎回最後にかならず、簀桁の真ん中で水の波紋が、ぴしゃんと打ち合う。それが綺麗で、見ていてずっと飽きなかった。

    この真ん中で打ち合う水の波紋が、吉野の漉き方の特徴らしい。後でお父さんの弘行さんとの会話でも、さらに植さんとの会話でも出てきた。

    <福西弘行さんのお話し 「吉野の漉き方について」>

    「水を真ん中で合わす。それが吉野の独特の『留め漉き』ちゅうやつ。あれで厚さを均一にする。流し漉きは捨てるのが基本。吉野ではほかの産地のように、漉いて(水を)向こうへぼんと捨てない。

    水を汲んだときは手前に、水を捨てたときは向こう側に、心持ち紙の繊維が薄く残る。だから、ほかの産地は、端を裁断してしまう。留め漉きちゅうのは、ほんとに、吉野独特な漉き方。」

    <植さんのお話し「吉野の漉き方について」>

    「漉きの最後に、しゃんて、水が簀桁の真ん中であう。あれが宇陀紙の特徴。」

    ―――あれは見ていて綺麗。

    「水をちょっと残しといて、ぱっと両方が打ち合ういうてね、難しい。普通はね、ゆっとって、ぱっとほかして、また漉く。それやったら楽なんですよ。だいたいね、何回動して、何回ほかして、次また何回漉くっていうとね、厚みの誤差は出にくい。

    そやけど、水をすくって、全部ほかさずにすこし残す、そのタイミング、残す量、あと真ん中で打ちおうて厚みになる。あれは紙の漉き方でもいちばん難しい。」

    「あれは、留め漉き。ふつうの留め漉きは、縦縦、横横に揺すって、まんべんなく紙の繊維が広がる。吉野では、さらに最後に真ん中で水を合わせることで、繊維を真ん中によせる。紙の簀桁が細長い、あんなんほんま瞬間的なこと。あれが吉野の特徴なんです。」

    「なんで真ん中でぱちっと合わすかいうと、後で紙を3つにつないでいく。そうすると繋いだとこだけが厚くなる。それを少しでも防ぐため、計算に入れて真ん中で打ち合わすことによって、真ん中を厚くする。打ち合わせたぶんだけ真ん中が厚くなる。だから、漉いた紙を紙棚の上へ重ねていった最後の形をみると、真ん中が盛り上がる。」

    正行さんが漉いた紙が重ねられていき、紙棚は50cmくらいの高さになっている。正行さんによると、今日の朝から漉いたものとのこと。

    黙々と繰り返されていく紙漉きの作業。質問をいろいろ投げかける雰囲気ではなさそうで、こちらも、黙々と観察する。

    これも後ほどお父さんの弘行さんから伺ったお話しから。このとき黙々と観察していて、よかったらしい。

    <福西弘行さんのお話し 「呼吸について」>

    「この土を、まんべんなく入れようと思たら、よくゆっておいて、ここいうとこで、そのときに呼吸をとめる、だから、紙すきは、しゃべりもってできない。

    原料を入れて、ネリもしぼってしもて、(漉き舟を)かきまぜじゅうぶんしながら、そうしたときに話をしたり、電話うけたりする。」

    *注1) 「紙棚(かみだな)」

    漉いた直後の紙を重ねていく台のこと。

    「紙床(しと)」が正しいか?。植さんのお話しで、何度か「かみだな」と耳にしたため、紙棚(かみだな)で記載。

    *注2) 「紙餅(かみもち)」

    叩解の作業によってできあがった楮のかたまり。餅のような形状になる。福西さんの作業場では、叩解後の楮のかたまりが、白土と混ぜられた状態でバケツの中に入れて置かれていた。ただし、これをなんと呼ぶか?今回の訪問では正確な言葉は耳にしていない。

    紙餅(かみもち)は『弥陀の舞』の小説から引用している。

    『弥平は、二の腕をまくって、大きくきねをふりあげ、くみの丹念に除いた楮を、ぺたぺたと叩いて餅にした。弥平は洗い終わった紙餅を舟に入れる。』

    *注3) 「簀桁で水をすくい上げる」

    簀桁の上に漉き舟の水をいれることを「汲込み」という。

    *注4) 「竹の棒を何本かとりつけ、竹の棒と簀桁のあいだを紐で吊るす」

    天井に取り付けた竹の棒を「弓」、竹の棒と桁をつるす紐を「弓づる」と呼ぶ。つまり、「簀桁を弓づるに吊るす」となる。

    *注5) 「濡紙(しとがみ)」

    漉き終わった直後の水分を含んだ状態の紙。

    ただし、これをなんと呼ぶか?今回の訪問では正確な言葉を確認していない。

    「濡紙(しとがみ)」は『弥陀の舞』の小説から引用している。

    『左わきをみると、ぬれた台上に、丈長の濡紙がかさねてある。弥平は指の腹で撫でた。漉き上りの出来不出来はわからないが、かさねられてある濡紙の波柄で、ある程度の上達はわかる。』

    ■福西弘行さんからお話しを伺う

    作業場で正行さんの紙漉きの作業を見学させていただいた後、玄関先の庭にでると、来た時に立てかけられていたたくさん和紙の干し板はぜんぶ片付けられていた。しばらくすると、弘行さんの奥さんに声をかけられ、「いま(弘行さんが離れの部屋の中で)紙の選別の作業をしてるんで、入ってもらっていいですよ」と声をかけていただく。恐縮しつつ、そろりと部屋の中へ入って行くと、弘行さんが作業をしておられた。

    声をかけ、挨拶をして、部屋の中へ入り、弘行さんにとても快く迎えていただく。

    <NPO書物研究会>

    ご挨拶して、今日来た事情を説明する。

    奈良にある書物を修復する技術を教える教室に行っていること、そこで福西さんの和紙のことを授業で聞き、個人的に吉野へ来たことを伝えると、「ああ、じゃあ、板倉さんのところの?。あの方なかなか熱心な方でね。」とすぐにわかっていただけた。そして、文化財の修復に使われる和紙のお話し、吉野の紙づくりのルーツ、歴史のお話しなど、たくさんうかがうことがきでた。

    <宮内庁書陵部>

    福西和紙本舗では、文化財を修復するための和紙も生産しており、京都でおこなわれる国宝修理装潢師連盟の研修会のお話し、宮内庁書陵部のお話しなどをうかがう。

    「私も、せがれも、宮内庁の書陵部に年に1回、お伺いするわけですが、そら古文書の修復しとるとこ見とったら息詰まりますよ。文字の虫食って、切れたところありますが、どんな文字だったか顕微鏡でみて、はねてるな、曲げてこうなってるな、それをしっかりと目で確かめて、辞書を広げ、元通りの文字に直すわけですわ。ちゃんと修復してから、なかなかあれ、相当なデリケートな仕事です。」

    <原料のルーツ>

    植さんのところでもうかがった、白土やノリウツギなど、吉野の和紙作りの原料とそのルーツのお話しをうかがう。白土がいつ頃から吉野の紙作りで使われるようになったのか?、そのルーツを直接うかがえたのは貴重な経験と思う。

    「バケツに入れてた白い土、これが吉野の紙をもたらす大きな要因なわけです。原材料は柔らかい石。手のひらの上に置いて金槌で叩いたら砕ける、そんな柔らかい石。それを50時間機械にかけて、熱でどろどろに溶かしてしまう。

    そうするとちょうどミルクのようにドロドロになり、それを細かい網で濾して、干し上げたのが原料となる。

    白土を混ぜることによって、掛け軸なんかでも伸縮がない、反ったりしない、いわゆる、暴れないということ。四季を通じて、湿気をこの土に吸収さす、今日のよな良い天気になれば、自然に乾いてくるから、ぴんとはる。そんなほんとのいい紙で裏打ちした掛け軸だと、風鎮がいらない。そういう特長がある。」

    ―――そういうのは吉野だけ?

    「そう。それと、漉き舟のところにあったノリウツギというネリ。これが吉野のひとつの支えになる。原料の楮、それを息子(正行さん)がちゃんと叩いて、楮と白土の粘土けと、ノリウツギの粘けで、吉野の紙が作られる」

    「こういうやりかたは、ほんとに、吉野の、ずっと遡る先祖がえらかったなぁと思いますわ。私(弘行さん)のお祖父さんの代には、もう白土を入れて作っていた。さらにそのお祖父さんの親が、すでに白土を使っていた。」

    弘行さんの祖父が、子どものころに聞いたおはなし。「当時、隣の東吉野村でも紙を漉いていた。そこで山行きをしていた人(数日のあいだ山に入り、紙作りの材料をとりにいく人)が、茶を飲んで谷のところまで行って水を汲んだときに白い水が出る。これ、おかしいいうて、白い水の出るもとをずっとたどり、探しにいったら、白いこういう土があった。

    これはちょっと面白い。弁当箱に入れて持って帰って、紙漉いとうからちょっとこれ入れてみよかいうて、入れてみたのが始まりやて。」

    ―――へぇ。

    「それを何の気なしに作ったのを、宇陀の商人さんがその紙を買い求めて、京都の経師屋さんへ持っていって売った。ほしたら、これはすごいと。これは良い紙と。それからですわ。

    だから、(弘行さんの)お祖父さんからきいたのは、何気なく持って帰って入れたもんが、掛け軸の裏打ちには欠かせない、補う紙には最高やいうことになって、広まったわけ。」

    ―――じゃあ、たまたま?

    「うん。これは宇陀の商人さんが、売りさばいてから宇陀紙になったんですけども。それまでは、紙が白いから並白(なみじろ)と呼ばれた。または、国栖紙(くずがみ)と呼ばれていた。

    そのうち、商人が宇陀からきとんやったら宇陀紙にしなさいということで、それから宇陀紙になった。だから宇陀が発祥やなしに、吉野が発祥やけども、販売をされたのが宇陀の商人。そういうことで宇陀紙になった。」

    「今こういう時代になってくると、伝統を守るちゅうことは大変なことです。年明けてから、自分とこの楮畑で刈り取って、干して、1月のおおかた終わりごろから、薬品を使わんと、原料の楮を煮るわけです。それが修復につかう紙。」

    ―――すべて薬品つかわない?

    「うん。使わない。全く。みな昔の紙はね、そんな今のような、水酸ナトリウムやとか、炭酸ナトリウム、そんなん無い時代でしょ。だから、木灰でたく。木の灰の、それでみな作ったのが、今残っている紙」

    ―――楮の畑は近くにある?

    「はい。」

    <人の手仕事>

    「こういう時代になったら、今の政治家、自分のことしか考えんとものを審議してない。こういう伝統的な日本の手産業が置いてけぼりですわ。コンピュータやとか機械が出てくるから、墨で刷って、文字をかく、絵をかく、これがいない。これが今の日本の文化を、滅びるひとつの大きな要因。

    文化財関係は跡継ぎ養成しとるけど、ふつうの表具屋さんとか親子でやってるところが、もう仕事がなくなって、今年の暮れから子供に別のところへ働きにいかせなしゃあない、そういう表具やさんもある。

    建物も全部ビル建て。そうすると、襖、障子がいらないわけ。そらもう、私の孫のマンションも押入れあるんですが、襖、ダンボールですわ。枠だけ木で、ダンボールの上に紙貼っとるだけ。そんなんが多いねんて。ちょっとさみしい。

    これから、日本の文化を本当に維持していこ思たら、そういう者どうしが集まって、基盤を崩さんように守ろうと。これでいいんですか?と、それを国のほう向いて、これからそういう方ばかりが集まる、ね、そういう会を、伝統を探究する会でもよろしいがな。」

    「私は、いちばん残念に思うのは、最近まで奈良県でたった1軒だけ傘屋さんがあった。

    私ら小学校いてるころは、桜井に3軒の傘屋があった、榛原にも2軒あった。それで5軒。奈良市の猿沢の池のちょっと入ったところに2軒の傘屋があった。そして、吉野に3軒の傘屋があった。

    それで最後まで残ったんが、吉野の宮滝いうところに1軒だけ残っとった。

    けどそれが3年前に、そのおじいちゃんが亡くなってしもて、娘さんが3人おってんけども、根気のいる手の込む仕事やから、とうとうならへんいうて。」

    「それが分かってたから、県庁行っても、商工所、町役場行っても、後継者を育成したってくれ、そういう資金くらい町くらい考えてもええやないか言うて。けど、そんなときは眼中あらへん。そして今になって、町の役場の人が『福西さんいうとったようにやっとった良かった』と。今になったら遅いねん。」

    近畿地方全体で、現在は、傘づくりは京都に1軒だけとのこと。

    「そしたら、奈良祭りの大きな大傘、あれなんかでもいまは九州の福岡で作ったもの。吉野で作っていたような技術やなしに。吉野のんは『竹傘』いうて、ちょっとこう雨が降っても、跳ね返りが違うわけ。そこを考えて作ってるわけ。そういうね、ちょっとしたテクニック、それをね、語るもんがおりません。ほんまに、はがいうてかなわん。

    ほんまにね、わしが20年でも若かったら、今からでも、傘自分で作る。道具あるから、やるっちゅう気ある。もうこんな80過ぎてからやったら、とてもやない。」

    ―――けど、手として覚えてらっしゃる?技術はご存知?

    「知ってます。今では、そこではまだ奥さんがおるから、その奥さんがコーチしてくれたら、あれ分かる。」

    「そういうね、真剣に、こう、日本人が、その当時考えなかった。これが、大きな、失策ですわ。」

    <お米を入れる袋>

    大正14年に漉いた紙を見せていただく。

    「当時俵詰めをしとった。俵のなかにこの紙を入れて、そして玄米を入れるわけ。で、蔵のなかに積んでおく。そうしたら、和紙いうのは、空気が流通するから、今のように冷蔵庫の中に米置く必要がない、あれは不思議やったわ。」

    ―――紙がなかったら、お米がいたんじゃう?

    「そう。これは、楮と桑の皮。蚕にするやつ。楮ばっかりだったら、もったいないから、蚕飼っていたから、桑の木の皮もいっしょに煮て作った。ここで漉いてた紙。だいじに置いてあんねん。」

    <戦時中の風船爆弾>

    「私は戦時中に風船爆弾の紙を作っていたから、軍事訓練受けていたんやけど、兵隊にも行くこといらなかった。というよりも、親父がせがれをとられたら跡継ぎが出来ないちゅうことでね、親父が軍用紙の注文をもらってきた。

    風船爆弾の紙は、おおかた3枚あわせてつくる。そんな厚いのやったら、3つの道具をつかっていた。1枚漉いて、これを横において、水をたらしておく。でまたひとつの道具で漉く、それまたこっちおく。でまたひとつの道具で漉く、それまたこっちおく、でまた、いっこめのやつを・・・」

    ―――大きさは?

    「福井県とか、四国は3尺×6尺を漉いて、その大きさを風船爆弾の紙で納めていた。だから祖父が持っていった紙は小さすぎて間にあわんいうて、けど、副長官がさわって、面積は小さいけどこれは今までにない非常に丈夫な紙やいうて。長官は、『よし、副長官がそういうんなら、これも作らす』と、うちの親父がひきうけて、帰ってきた。」

    「昭和の19年の夏、青年学校で、真夏の暑い河原で実弾射撃が月に1回あった。それまでは空砲で撃っとったけど、その実弾が的を射抜いたら、翌月また実弾射撃をする。昭和19年、18歳。終戦なったときに、19歳でしょ。

    20歳で徴兵検査を受けるが、兵隊が欠乏してくるから1年くらい若ても引きぬく。それを親父は分かっとったもんやから、製造元として、帝国陸軍省と判をついた軍用紙を作った。

    ある日『ここに若いもんがおる』いうて憲兵がきた。

    が、『若いもんおりますねんけども、実はこれを作ってますんで』と父が言うたら、憲兵が「これは恐れ入りました、君、しっかり頑張ってくれよ」と。

    製材所へ行ってるもんも、助かっとるわけです。船つくるのに、材木を板に厚めにひいて、これで輸送の船を作らないかん、ボート作らなあかん。そんなんで、彼らも、兵隊に行くこといらんかった、軍事訓練はうけてたけど。」

    ―――紙を漉かれてたのもここ?

    「うん、ここ。」

    ―――生まれも育ちもここ?。

    「うん。憲兵がきたのもここ。今でこそ道良うなっとるけど、当時は登ってね、これくらいの日本刀を腰ぶらさげて、ここまでの長靴はいて、偉そうなかっこで来てましてん。戦争の、厳しい最中やから、警察みるよりその人の姿みたほうが怖かったくらい。そんな時代こえてきてんねんてよ。」

    「10年前、ワシントンに、紙漉きの実演きてくれ言われて、私らに来てくれいわれてんけども、息子ら夫婦がかわりに行ってくれた。

    そして、ワシントンで実演終わってから、ニューヨーク案内されて、スミソニアン博物館入ったら風船爆弾があった。お父さんいうとったんこれやいうて、それまでは、あの子らも信じててくれなんだ。それが、紙漉いとった親父と名古屋まで見にいっとたから、私は自信持ってしゃべれるわけです。」

    <お話しの最後に>

    「本物使ってね、修復勉強してくれたらよろしいねん、見本に上げますわ。」と、最後に福西和紙本舗で作られた紙を譲っていただいた。

    「板倉さんに、よろしくおしゃっとってください。またで会いたい、ていうて。元気にがんばってくださいいうて。」

    ■植さん宅への戻り道にて

    弘行さんにお別れの挨拶をし、離れの部屋を出て、作業をしている正行さんにふたたびお礼をお伝えしに行くと、正行さんが奥さんに「植さんとこまで送ったげて」と仰る。

    勝手な訪問でお邪魔してしまったので何度か断るが、結局、車で送っていただくことになり重ね重ね恐縮である。

    玄関を出て待っていると、玄関先に佇んでいた黒猫。名前は「くぅちゃん」。

    「うちのねこじゃないんですけね・・」と、奥さんの初美さん。

    福西和紙本舗

    車に乗せていただいて、正行さんの奥さんに植さん宅まで送っていただく5分程度の道のり。

    見学にこられる方って多いですか?と訪ねると、「はい。修復してくれているかたが来てくださるのが、いちばんうれしい。大英博物館とか、外国からも修復される専門のかたが見学に来る。」

■紙を顕微鏡でみる

<福西和紙本舗 宇陀紙(白土入り) 45倍>

顕微鏡写真

■まとめ

福西和紙本舗では、紙漉きの手作業の見学、和紙作りの歴史のお話しなど、いろんなことを直接うかがうことができ、こうやって記録を文章に起こすと、いかに良い経験になり自分の興味が広がるきっかけになったかが、改めてよく分かりました。

古きを尋ねて新しきを知る、と言ってよいのでしょうか。

世の中知らないことばかり。ともかく、いろんなところを歩いて見て聞いて、ひとつひとつものごとの意味を知っていくのは、楽しいです。

個人的に印象に残っているのは、福西弘行さんの「傘」のお話し。さまざま事情が重なり、いろんなところで伝統技術が途絶えていくお話しをうかがうとき、いつも切ない気持ちになります。いっそのこと、傘作りをされていた家のそのお母さんに、僕が傘の作り方を習い、伝えられないだろうかと。切実に、思います。

謝辞

今回の奈良吉野の国栖の里への訪問は、とても稀有な巡り合わせをいただき、偶然にも「国栖の里観光協会」の会長でもある植和紙工房の植貞男さんにお会いすることができたおかげで、僕にとって、ほんとうに貴重な経験になりました。

事前の連絡も無く、お仕事中の突然の訪問による失礼にも関わらず、植さんには朝から夕方まで1日をかけて国栖地域を案内していただき、物産館、割り箸の製箸工場をはじめ、福西和紙本舗では福西正行さんの紙漉きの手作業を間近で拝見させていただき、さらに、福西弘行さんからは長い時間にわたって和紙作りの歴史の貴重なお話しを伺うことができました。

現地の方々とたくさん接する機会を頂き、さらにはとても良い天気に恵まれて、吉野・国栖の里の風景も堪能でき、和紙作りをはじめとして、人の手仕事と、そのルーツを知るきっかけになりました。これからもっと、理解を深めていきたいと思います。

吉野でお会いできたみなさま、植さん、福西さんのご家族のみなさま弘行さん、千恵さん、正行さん、初美さん、物産館の方、和田さんご夫婦、植さん宅前で偶然道をたずねた奥さん、改めて御礼申し上げます。今回頂いたご縁を大事にしていきたいと思います。 また吉野へ出かけたいと思います。ありがとうございました。

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